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メディカル関連エッセイ

私の医局時代 ~故・島教授最後の手術を介助~

そもそも私が整形外科に興味を抱いたのは、医学部3年目の夏。釧路に近いM炭鉱病院に実習を兼ねて行った時だった。病院の雰囲気にも慣れ、数キロ離れた分院に仲間と診療を任されたある日、若い母親が幼児を連れて来院してきた。「ちょっと腕を引っ張ったら、子供の肘が動かなくなった」という。本院の院長でもある整形外科医に電話をしたところ、「それは肘内障」という。

整復操作を丁寧に教えてくれたが、子供は泣き叫ぶばかり。しばらくして車で駆け付けてきた院長は、車に乗ったまま子供の手をとり、数秒間、動かしている内に治ってしまった。これが私に整形外科の道を選ばせる契機となった。

国立相模原病院でのインターンを終えた昭和36年、学生時代に最も恐れていた、故・島教授、エネルギッシュな松野助教授のおられる北大整形外科教室に迷うことなく入局した。

6月、医師国家試験全員合格のお祝いで、教授が我々を割烹「お染」に招待。同期7人は上座に座らされ感激したものである。

その年は、日本整形外科学会総会が教授主宰で札幌で行われた。私は筋電図を研究の主体とする第3研究室に所属した。T、M先生らの指導のもとに、前年、全道を襲ったポリオ(脊髄性小児麻痺)の調査・研究に、夜を徹し酒を痛飲しながら取り組む毎日だった。

また、伊達赤十字病院に新設されたポリオ病棟に検査機械を携帯、筋力測定や、変形の調査に携わった。痛々しい幼い子供たちとの触れ合いと共に、北海道の湘南といわれる温暖な気候、海と山の幸に恵まれた風光明媚な環境が私の心をとらえた。そのことが在局7年の後、島教授から数カ所の固定先の病院を示されたとき、伊達赤十字病院を選んだ大きな理由となった。

日本整形外科学会総会も盛会のうちに終わり、7月には岩見沢労災病院に派遣された。初めての給料は、確か2,800円。その後医局とアルバイトを兼ねての地方病院との出入りが続いた。釧路、芦別、赤平、登別、旭川、美唄、函館など…。この間の医局には、恐ろしさを知らず、大学から来た若い先生として快適に過ごした出張先の病院から帰ってきて、暢気に手抜きや中途半端な仕事をしていると教授に頭から怒鳴られ、手術中に卒倒した同僚、また自分の子供に教授と同じ名前をつけ、ウップンを晴らしたという先輩もおられた。

しかし診療と研究の多忙な日々の中で傾きかけ、古ぼけた教室で得た耳学問、3階の屋根裏でのマージャン、300円会費でのジンギスカン、医局対抗野球大会、登山、スキーと楽しい日々でもあった。急ぎのスライドを徹夜で作ったとき、人を誉めるということのない教授から7年目にして、初めて言われた「ごくろう」の一言の嬉しかったこと。学問への厳しさ、教室外でのにこやかな笑顔。「オヤジ」と呼ぶにふさわしい教授であった。

昭和43年、医局を去るその年の1月、股関節の手術途中でひどく汗をかかれ「あとは頼む」といわれた時、兼任していた院長職の疲れかと思っていたが、それが教授の最後の手術となろうとは!

在局した7年は、私の青春の充実した一時だった。

(平成19年2月 記)

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