『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎』
今年(2008年)のゴールデンウィークにロンドン、パリへ旅をした。
5月2日に「ロワールの古城巡り」のツアーに参加。その際に見たシュノンソー城の姿は、ロワール川の支流、シエール川をまたぐように建っているので水に浮かぶ船のようなロマンチックなたたずまいであった。16世紀の創設以来、代々の城主が女性だったことから「6人の女の城」とも呼ばれる。
次に訪れたシャンボール城は、16世紀初期に25年の歳月をかけて建てられたそうである。
最後に訪れたのがアンボワーズ城。この城はロワール川のほとりの高台にそびえる壮麗な城で、テラスから見下ろすロアールの谷とアンボワールの街並みの眺めは素晴らしい。
15世紀末にイタリア遠征から戻ったシャルル8世が、ルネッサンスの粋を集めた華麗な宮殿として改築。さらにルネッサンス文化をこよなく愛したフランソワ1世の時代に最盛期を迎えた。
この城のすぐ近くにあるル・クロ・リュセ館で、レオナルドがフランソワ1世により招かれ、生涯最後の3年間をそこで過ごしている。現在はレオナルドの記念公園として公開されていて、そこで有名な「モナリザの肖像」「人体解剖図」「機械・器具など」を見学した。偶然にも訪れた5月2日はレオナルドの命日にあたり、1519年67歳で逝去後489年を経ていた。
レオナルドは、当時の芸術家としては珍しく、「鏡文字(注1:別記)」で書き記す習慣をもっていた。彼は紙片やノートを持ち歩き、日記のように所感や研究についてのアイデア、考察、スケッチなどを書き綴った。一番古いものは1487年のものと考えられていて、それ以後1519年に没するまで、膨大な量を書き残している。
注1:「鏡文字」は書く際に左右を反転し、上下はそのまま、通常左から右へ書く文章であれば、右から左に書く書き方で、鏡像文字とも言われる。左利きの場合、自然と鏡文字を書くことや、5~6才までの子どもが無意識に鏡文字を書く事例が知られているが、原因はよく分かっていない。自然発生的なもの以外ではLD(学習障害)という脳の障害によって鏡文字を書く事例がある。
約500年前に想像したとは思えない作品群に直面し、帰国後その謎に興味を持ったため、出版されている種々の本やインターネットで調べてみた。一番興味を惹いたのが「ヘリコプター」であった。当時は勿論「ヘリコプター」という言葉もなく、彼はAerial Screw(空気スクリュー)の名で、『パリ手稿B』(注2:別記)に空飛ぶ機械の研究成果を記している。
人間が空を飛ぶために、レオナルドは2つのことを考えていた。1つは「人体(機械の動力)の力学的可能性」について。もう1つは「空を飛ぶ機械が制御しなくてはならない空気という物体」についてである。
空気スクリューはこうした背景から考え出され、レオナルドの飛行に関する研究に一大転機をもたらした。理論や技術的な問題はさておき、このアイデアは人類が近代的な進歩を遂げる過程で見た"夢"とでも呼べるものであろう。
レオナルドは空気のことを、水とは違って十分な力で押さえれば圧縮できるものと考えていた。「翼」の研究(『パリ手稿B』88v 注2:別記)と同様、空気スクリューもこの奇抜な発想に基づいている。装置設計図の周囲には、やはり線影が描かれていて、目には見えない空気の確かな存在が表現されている。圧縮できるのは空気が密度をもっているからであり、つまり高速で回転させれば、スクリューは宙に浮かぶ。スクリューは空気という流動体をかき分けて前に進むことができるのだ…これがレオナルドの考えた原理であった。成功の可能性はスクリューの回転速度にかかっていた。そこで、当時まだ研究中だった別のテーマがこのアイデアの鍵を握ることになる。スクリューを回転させるエネルギーの確保である。
しかし、レオナルドの研究にはよくあることだが、このテーマは回答が出るまで突き詰められずに終わった。スクリューの動力が人力なのか、コマのように巻いたひもを素早く解くことで生まれるエネルギーなのか、はっきりとは判っていない。
これとは対照的にもっぱら動力部の構造だけをひたすら考察した飛行船の研究というのもある(『パリ手稿B』880v 注2:別記)。この研究でも、面白いのはレオナルドが空気スクリューを設計していった実際の足どりではなく、彼が設計とは直接関係のない理論的な問題(人体の力学的可能性や空気の性質など)に取り組んだ、という事実のようである。
注2:現存する九種の手稿や素描などは、通常紙葉単位、つまり枚数で数える。レオナルドは1万ページ近い手稿を書き残したが、現在ではヨーロッパ中に散逸してしまった。現存する手稿は、アテランデル手稿、トリレルツイオ手稿、鳥の飛翔に関する手稿、パリ手稿A~M(アシュバーン手稿Ⅰ、Ⅱを含む)、解剖手稿、ウインザー紙葉、アランデル手稿、フォスター手稿(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)、マドリッド手稿(Ⅰ、Ⅱ)、レスター手稿に分類される。
レオナルドが考案した数々の機械は、理論的な考察を"目に見えるかたち"にしたものだった。らせん形のスクリュー自体はありふれたものだが、空気にスクリューを応用したのはレオナルドが世界で初めてだったことを忘れてはならない。彼が考えた空気スクリューは、ヘリコプターの原理に近い構造に出来上がるまでの間に約13種の詳細な設計図が書き残されているのである。
広大な庭園で、孫たちは置いてあった図面を見たりヘリコプターのレプリカに触ったりして楽しそうに遊び、私は数々の偉大な発明もペンとインクというありふれた文具で生み出されたのかと感慨にひたった。インターネットで、ヘリコプターのマークが以前ANAの機体についていたことを知り、6月に上京した際、客室乗務員に社章について聞いたところ、そのマークがANAの社章で幹部社員が付けていることを知った。その後、ANA本社の広報部に問い合わせたところ、担当の女性社員が自分のバッジを写真にとり、メールで送ってくれた(写真)。

「以前は機体にも記してあったANAの社章」
フランスでの死
64才の冬、ローマで希望をなくしたレオナルドは、北のフランスへ向けて旅立った。イタリアでは一生望んで叶えられなかった"宮廷画家"の栄誉を最初で最後にオファーしてくれたのもフランス政府だった。フランスは当時、若きフランソワ1世の治世を向かえていた。軍事的に、政治的にイタリアをもはや圧倒していたフランスは、経済的にもすでにイタリアを逆転しつつあった。しかし、文化的には未だ後塵を排しており、その差を縮めるためにフランソワ1世はイタリアから各分野の文化人を招聘した。その象徴的な存在こそがレオナルドであった。
フランスでの最後の2年半は、おだやかなものだった。フランス王はレオナルドだけでなく彼を取り巻いていた弟子(特に一番で死はフランチェスコ・メルツイ)達に貴族の出自にふさわしい額の年金が与えられた。王の亡くなった母の居城だったクルー城を与えられ、メルツイとサライら数人に囲まれて住んだ。
レオナルドは1519年、67才で世を去る。死期を自覚し、前もって長々とした遺言状をしたため、唯一の遺言執行人に指名したのが、メルツイである。彼に対しては、芸術活動に関する機材一式、肖像画や素描のたぐい、書籍、手稿の全てが遺された。つまり、レオナルドの精神活動のあらゆる所産が、たった一人の弟子の手に委ねられた。
当時メルツイはまだ十代前半で、レオナルドはすでに60才近い。彼はメルツイを我が子のように愛し、育てた。晩年の手稿にしばしば現れるレオナルド以外の筆致は、少年が早くも高いレベルで、師匠の様式を身に付け始めていたことを示している。
レオナルドは遅いスタートをものともせず、学の無さを悩みながらも克服しつつ、徐々に「知の巨人」となっていった。結婚もせずに、愛する弟子を晩年に得た。
では果たして彼は、満足して死んでいっただろうか。彼は死の前年になっても、「私は続けるだろう」とメモに書いている。何かは分からない。しかし、まだ何かを諦めていなかったのである。
今回は空気スクリュー(いわゆるヘリコプター)について感想を記載したが、レオナルドの命日にアンボワーズ城を訪問した奇縁を契機としてレオナルドに興味を持つに至り、今後は彼の建築、土木工学など、具体的に空飛ぶ機械、潜水艦、戦車、自転車などについても機会があれば紹介したいと思っている。
近藤整形外科医院 近藤 浩
参考文献
- 『ダ・ヴィンチ天才の仕事―発明スケッチ32枚を完全復元』ドメニコ・ロレンツァ、マリオ・タッディ、エドアルド・ザノン(著)松井貴子(訳)
二見書房(2007年) - 『ダ・ヴィンチ―万能の表現者』フランチェスカ・デボリーニ(著)
樺山紘一(監修) 旺文社(2007年) - 『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』池上英洋ほか(著)
東京堂出版 (2007年)
